こんにちは。
日本の南、太平洋の上で長居する台風のせいか、今週はすっきりしないお天気です。
台風には慣れてる沖縄の人たちも、さすがに参っていらっしゃることでしょう。
どうかみなさまご安全に。
たしか去年の本屋大賞かなにかにノミネートされていましたっけ?
SNSでもそちら界隈ではとても話題になりました。
私もやがて訪れるだろうその日をなんとなくおもい買っていました。
その日は突然、やって来ました。
ある日の夕方、警察署からの電話。
父が近くのスーパーで万引きしていま保護しているので身柄を引き取りに来てほしいと。
驚いたような、どこかで予想していたような。
スーパーのレジ横あたりに雑誌コーナーがよくありますよね。
そこの雑誌を立ち読みして、そのまま、近くのベンチに座り込み、そしてその雑誌を自分のリュックの中にしまった。
そこを警戒していた警備員さんに呼び止められて、別室に呼ばれ、そして警察へ。
本人には、盗むという意図があったのかどうかは不明でした。
ただ、これは、けっこう前から断片的に目撃されていたようでした。
警備員さんは、書棚から販売中の雑誌を持ち去る現場を目撃していなかったので、確信を持てず、現場を押さえることができなかった。
警察ではそう説明されました。
書棚に並ぶ雑誌を手に取る
読み耽る
疲れて来たので、近くのベンチに腰掛ける
読んだので、さあ帰ろうと思い、手に持っている雑誌をかばんにしまう。
一瞬一瞬の行動にミステイクはなかった。
だけど、その本は売り物だった。
「会計をする」という手順だけが抜けていた。
私にはそのように見えました。
本のなかには、このような買い物と支払いで起こるエピソードを「カイケイの壁」として描かれています。
『心身機能障害44「複数のモノ・コトから正解や最適解を選択・判断できない」』
・靴を間違える
・整理整頓ができない
・ICカードにチャージできない
・陳列棚で買うものを取り違える
・会計をせずに帰ってしまう
などなど…
一連の行為の文脈のなかで、今自分が手にしている本が書店の売り物であるということが、歩いて、ベンチに腰かけ、雑誌を読むという時間経過の中で、忘れられてしまう。
結果としては反社会的な行動になってしまった。ということなのだろうか…
そうは言っても、本屋さんにとってはやはりそれは盗まれたに違いないわけですから、仕方ありません。
迎えに行った父が、私を見たとき、うつむいて肩を落としたまま、かすれた声で「すみません…すみません…。」と言っていました。
父自身も自分の行為の何が誤りだったのか、よく理解できていなかったかもしれません。けれど、現実問題、こうして警察のお世話になってしまっている。その自覚はできたのだろうと思います。
引き取りのために、娘さんに連絡するとおまわりさんが言ったとき、父は娘には知らせないでほしいと頼んだそうです。
警察署の玄関を出て、車までのわずかな距離を歩いたことは、私はこれからも一生忘れないでしょう。
小雨に降られながら、父をただひとり歩かせることがどうしようもなく不憫で、もう何十年もつないだことのなかった父の手を思わず握りました。その手は、『熱でもあるか?』とはっとするぐらい温かかった。その手をしっかりと小脇に抱えながら歩きました。
もしかしたら、ひとりで歩けなかったのは、私のほうだったのかもしれません。
現在進行形で認知症世界を歩く父
その世界をともに歩くには?
まるで、正解は見えないままですが、もう後戻りはできない。
事態を冷静に受け止めて、少ない休日にあった予定をすぐさまキャンセルし、車を出してくれた父ちゃん(夫)がいてくれてよかった。
ことさらに明るく「そうか!じゃ、迎えに行こう!」と、まるでテイクアウト注文したスープカレーでもとりに行くかのように、終始ほがらかにふるまってくれたことには、本当に心が救われました。
認知症であること
認知症の家族がいること
警察にお世話にならねばならなかったこと
これらは、もしかするとちょっと隠しておきたいことなのかもしれません。
でも、私は、それを隠すことは父の存在を否定することにほかならない。
だから、ありのまま、むしろ、もっと発信しよう、いろんな人に。
そう思いました。
もし、これを読んで不愉快に思われるかたがいらっしゃったかもしれません。
お店がわの立場なら、自分勝手な自己弁護に見えるかもしれません。
ほんとうにごめんなさい。
わたしはどうやって認知症世界をともに歩けばよいのか
また、父だけではない、家族やヘルパーさんや、ケアマネさん、おまわりさん、関係するひとたち、それぞれの立場でのそれぞれの考えがあります。
きっとずっとわからないのだろうと思いますが、遠い先を見ても解は見えないような気がします。
この一件のあいだ、テルモは私の気持ちを敏感に察知して、お迎えに行く仕度のあいだじゅう、私のうしろをずっと着いて歩いていました。
それは、予想したとおりの行動でした。
だから、テルモに心配をかけすぎないために、私はしゃんとしていようと気を張っていることができました。
人の暮らしの中で生きる犬は、良くも悪くも、人間世界の出来事に巻き込まれざるを得ない。
それをストレスと言えば、そうに違いないのですが、それらをゼロにすることが最善かといえばそれは疑問です。そもそもそんなこと無理。
ならば、目指すところは、ストレスゼロの暮らしではなく、そのストレスからいかにリカバリーできるか?
リカバリーのための方略をいかに普段から装備できるか?
だから、かいぬしはどれだけ(人間の快適ではなく)「犬の」ハッピーを創る出せるか?
すべては「犬を知る」ことから。
原点はいつもそこにあるな、再認識しました。
今日も読んでくださってありがとうございました(。・ω・。)ノ♡&✌