こんにちは。
テルモ地方は今日は昨晩からの雨でお散歩行けず…
一日中降り続いて、五時すぎに町内巡回してウンチング💩だけしてきました。
途中でご近所さんの馴染みのお子さんが雨の中をテルモを撫でに来てくれました。
このおうちにも小型犬さんがいるのですが
「お散歩に出ても全然歩かなくて…なんででしょう?」とお子さんの子守にいらしているおばあちゃまがおっしゃってました。
まだパピーだった頃から知っているんだけど、最近はそうだったのね。
歩かないのは、犬的になにかしら理由があるんでしょうか。
そのうち一緒にね、歩けるといいんだけどね。
今日はnoteに書いた、テンプル・グランディンさんについての記事をシェアします。
大好きなので、つい長文になるんです^^;;;
この記事では触れていませんが、もうひとつ私がテンプルさんを尊敬していることがあります。
それは、これだけ動物について学を収めて、家畜動物の飼育が動物福祉的に十全なものかどうか点検する州のチェックシステムづくりなどに尽力されている彼女。
その彼女が、食肉処理工場で仕事しているということ。
ここ、ちょっと驚きませんか?
そのことについて、この本のあとがきに書かれています。
今日では多くの人が死からすっかり隔絶されているが、生きとし生けるものすべて、最後には死ぬのだ。人間は農場の動物を繁殖させ飼育しているのだから、動物が相応の生活をし、痛みのない死を迎える責任を負っている。動物が生きているあいだは、物質面と精神面の欲求を満たしてやるべきだ。(p353より)
「痛みのない死を迎える責任」という言葉、初めて読んだときズキューンと頭を打ちぬかれた気がしました。
動物がどのような死を迎えるか?
そこに責任を感じるほど向き合ってただろうか?
いつかみんな死ぬのはわかっているけど、なんとなくそこはあまり考えないようにしてぼんやりとしてたかも。
そのあとの文に続いているように、生きている間、さまざまな欲求をより満たせるように心を砕くのは、動物と暮らす人なら誰でも考えているでしょう。
だけど、よく考えれば死に方だって、人と暮らす動物は自分ではどうにもならない。
というか、自然界でもいつどのように死ぬかは選べないけど、家畜やペットはそれすら人の手に委ねざるを得ない存在。
この本のあとがきには、彼女の処理工場に見学に来た女性に牛が屠殺室に入っていくところを見せるシーンが出て来る。
牛は、曲線型の通路をおとなしく歩いていた。作業員は落ち着いていて、どなり声や鞭の音など、ひとつも聞こえない。このようすを十五分ほど眺めると、女性は 「牛がこんなに静かに歩くなんて、信じられない」と言った。
命が消えるその瞬間までできるだけ苦痛を与えない。とくに死に向かうとき、その恐怖を与えない。死の恐怖という命あるものにとって最大で最悪の恐怖を感じさせることなく死ねるように。究極の精神的ケアですね。
言葉が通じ合う人間どうしだって、それは最高に難しいケア。
どうせ動物は話せないんだし、殺されて肉になるんだからどっちでもいいんじゃない?
そう切り捨てる人もいるだろうし、まだまだそっちの人が多いのかもしれない。
そうして、あとがきはこう続く。
死を動物に起こりうる最悪の事態と考える人がいる。放し飼いの犬は、車に轢かれて死ぬこともあるが、他者と触れ合う生活は充実しているだろう。家に閉じ込められている犬は、車に轢き殺されることはあまりないだろうが、飼い主がたっぷり遊んでやったり、相手になったりしてやらなければ、生活の質は放し飼いの犬より低いかもしれない。動物にとっていちばん大切なものは、生活の質だと私は考える。そのために必要なものは三つ、一に健康、二に痛みや好ましくない情動からの解放、三に「探索」と「遊び」を刺激する活動だ。
野生動物にも、これらは大事なのは同じ。家畜やペットも。
ただ野生動物と家畜やペットには大きな違いがある。
野生動物は、安全で快適に生きるために自らの力で嫌なものを避けたり、より餌が豊かなところへ自ら移動したり、繁殖したりする自由がある。もちろん、そこには危険と過酷な環境に向かわなければいけない宿命も背負っている。
家畜やペットは、そのどれをも人が担っているということ。動物たちに自己決定権がないということ。
そのことを忘れたらいけないですね。
車に轢かれたり、捕食者に食われる危険はない代わりに、その種らしい本来的な暮らしを奪われているということ。どう死ぬかも含めて。
そう思ったとき、犬と暮らす私たちは、犬たちにどんな環境を提供すればよいのか?
その環境は人にとっての快適ではなく、犬としてのQOLを指している。
犬としての幸せ。
それは、「犬という種」について知ることなしには難しいですよね。
今日も長文読んでくださってありがとう。
ではまた。