こんにちは。
秋の雨といえば、細かい雨がしとしとと長いこと降り続くイメージ。
季語にもなっているようだけど、今年の雨は様子が違いますね。
線状降水帯というような、10年前には聞いたこともなかったような気象用語が飛び交って、地球のご機嫌も変わって来ているのかなあ?
秋雨や夕餉の箸の手くらがり(永井荷風)
秋の早い日没、暗くなった部屋の中でひとりぽつんと夕餉(ゆうげ)をつつく手元、降り続く雨のしとしという音がいっそう孤独をかきたてるような何処かもの悲しい雰囲気の俳句…
こういう雨は何処へ?
北海道テルモ地方は、朝晩はひんやり、昼間はからりとした風が気持ち良い土日です。
いつもの農業学校構内散歩
7月にお花の品評会をやっていたところ
品評会が終わって一か月ほど経った今は
みんな一様に草丈が伸びてこんもりと島のようになってて
これはこれで好きです(*^^)
抜いてしまって片付けていなかったんだなあ…
そういうところもなんかイイ。
今日は内田樹さんの本から。
犬の学び舎で数年前に紹介されていた本。
先日、またあがってきたので久しぶりに読みました。
前に読んだときとはまた違うところに線を引きたくなる。
頁をめくるたびに、前とは違った発見がある。
何度でも何かあるごとに開きたい本。
この本も、前のブログで紹介した2冊と同じように「学ぶことの本質」に迫ったもの。
たくさん引用してしゃべりたいことがあるんですけど( *´艸`)
ひとつだけ。
弟子が師から何かを学ぶということは、単なる商品取引とは全く違うということ。
対価とそれに見合っただけの知識やなにかを交換するようなものではない。
弟子は師に教えを乞うとき、自分が何を学べるかを知らないものなのだと。
弟子が「師は何を伝えようとしているのか?」という問いをみずから立てられる。
このことを内田さんは「学びの主体性」と呼んでいらっしゃる。
そうして、弟子みずからで学び取ったものは、ほかの弟子と必ずしも同じものである必要はない。むしろ同じであってはならない。
このことを内田さんは「学びの豊穣性」を担保するとおっしゃいます。
謎から学び取り出すことのできる知見は学ぶ人間の数だけ存在するということこそが、学びの豊穣性を担保しているからです。
私たちが「あなたはそうすることによって、私に何を伝えたいのか?」という問いを発することのできる相手がいる限り、私たちは学びに対して無限に開かれています。私たちの人間としての成熟と開花の可能性はそこにあり、そこにしかありません。(p175より)
先生と生徒
教えるものと教わるもの
師と弟子
さまざまな呼び方があるけれど、この2者の間で営まれる個別でオリジナルで一回性の成果に通底するもの。それを内田さんがこのように表現されているのでしょう。
犬との暮らしも、個々それぞれにオリジナリティが高くてしかも一期一会です。
その中で、犬が私たちに教えてくれる学びは、まさに内田さんの言う「豊穣性」そのもの。
そこには簡単にはたどり着けないのかもしれないけれど(*´ω`)
今日も読んでくださってありがとう♡