こんにちは。
今日も森ばなし…
一か月後にとある集まりでミニプレゼンをさせてもらいたいと計画中です。
それで,森についての展望がある程度煮詰まるまでつづけて森ばなしをします。
2日前に,このブログではもうお馴染みoutwoodsの足立さんからひとつの記事が送られてきました。
足立さんの森での道づくりへの想い,人にとって森がどんな存在であることを願っているのか,などがよくわかる記事です。
森に道がなければ人が入ることができない。森には課題だけでなくたくさんの『奇跡のような自然の営みがいっぱい在る(記事中より引用)』とおっしゃった上で,こんなふうにもおっしゃっています。
道は僕じゃなくても誰かが作れば森には入れるようになる。肝心なのは、適切に使われ、維持されていくことです。
指折りの道の作り手の言葉としてこれはずしんと響きました。
同時に,先日の森の見て歩きのアフターディスカッションで足立さんが面白い提案をしてくださったことを思い出します。
みんなで何度も森に入っていっぱい歩けば,そこに道が出来ますから。
刈り払い機(動力付きの草刈り機のこと)をブンブン振り回して笹を刈るのでなく,優しく小さく動かして,ひとがちょうど通れる幅の道をつける。そんな方法もおススメされました。
な~~るほど~~
そもそも森に暮らす動物たちは,まさにそうやって獣道が出来上がっている。
記事では続けてこうおっしゃっていますね。
そのために僕は森の在り様を観察し、森の中での人の『営み』を考えて道に落とし込むことを重視しています。
まさに。
獣道のできかた,そのものだ。
そして,現代人の森とのつきあいについてこのように。
人は森のこと、自然のこと、地球環境のことを忘れすぎてしまった。だからまず思い出さなきゃいけないんですよ。
奥深い場所でなくていいので、歩いたり、走ったり、滑ったり、迷い込んだりして、森の中で過ごしてほしい。そして、ごく小さなことでいいから、森の中で今起こっていることと自分の生活の繋がりを見つけてほしい。その積み重ねの先に、みんなで語り合えるようになる森の共通言語が生まれ始めると思います。
「奥深い場所でなくていい」なんて言われると,ちょっとビビっと来る訳です。
北海道と言えば,でっかいどー!なイメージで雄大な自然をイメージするかたが多いでしょうが,札幌市は人口200万を数える大都市です。
ここ清田区はその端っこで,中心部からは遠く離れたベッドタウン。その真ん中にある大きな商業施設に隣接する森は,決して奥深い場所ではない。むしろ,周囲を住宅や大きな道路で囲まれています。森で迷ったとしても,一直線に歩き続ければ,1時間以内には森と道路の境界線に出られます。
だから,これが本当に血道を上げて守るべき森と呼べるのか?なんてちょっと自信がないところもなかったわけではないので,「それだって森とのつきあいだよ。」と言ってもらえたようで安堵します。
さらに,先日のアフターディスカッションでは足立さんはもっとびっくりなことをおっしゃったんです。
この森は大きすぎる。駐車場の中にあった小さな緑地。あれとかをもっと活用することも考えてみたらよいと思います。
そうなんです。店舗面積がかなり大きいイオンですが,屋外駐車場面積も広いのです。その中に,ぽつんと取り残された中洲のように緑地が2か所あって,いろいろな樹木が生えているのです。
実は,森歩きの数日前にテル散歩で,その箱庭のような小さな林の一角でウワミズザクラが満開になっているのを見つけたばかりでした。
それで,ほかにはどんな樹木があるのか気になり,ぐるり一回りテルモと一緒に歩いて見たんですね。
大木ではないけれど,ミズナラ,ナナカマド,シラカバ,ナラガシワ,カエデ,そして私にはまだ名前のわからない広葉樹いろいろ,大好きなトドマツも。高い木だけでなく,私より背の低いかわいらしい若木も。
こんもりしたその林の中には,「駐車場」と書かれた緑色の看板を照らすための大きなライトが設置されていて,その周りだけは何本か木を伐採して小さな空間が出来ていました。
実は,この箱庭な森について父ちゃん(オット)と「森整備の練習場みたいに使えないかな?」なんておしゃべりしてたんですね。
ということで,イオンのかたもこの中洲みたいな小さな森活用について乗り気なようでしたので,ここでの面白いことを計画してみたいですね。
足立さんがおっしゃる「自分と森の繋がりを見つけられる」ような何かを。
このサイズなら,やる気にさえなれば,すべての樹木に樹名板をつけたり,みんなでちょこまかと歩いて獣道ならぬ人道をつけてみたりも出来そうです(ま,人間も獣の一種ですけど)。
リアルに人力で道をつくる練習にもなりそうです。
最後にもうひとつ!足立さんの言葉
技術が優れているかといったら、50年以上経験を積む世代には到底及びません。ただ、僕には想いがあるんです。いろんな人と森の世界を共有しながら、もとある景色を大事に営んでいきたいというのが僕の初期衝動であり、それを追い求め続けています。
と謙遜しながらも,足立さんならではの強みについて語ってらっしゃいます。
でもね
私は自分の技術について「先輩には到底及ばない。」ときっぱりと断言できるプロこそ信頼できます。(残念ながら犬の世界はこういう人は少なくて,自称プロが変な…以下自粛)。
どこまではできて,どこからは出来ないか?自分の力をよくよく知り尽くした人だけが「できない」or「わからない」を明言できます。私も,かつては技能とキャリアが物言う世界で自分の不全感と苦闘しながら働いていたのでよくわかります。
新米にいたっては,わからないことだらけ。何がわからないかすらわからなかったりします。
トーヤの森でのこと。
上のほうでチェーンソーで木を伐って戻って来られた足立さんが一番初めにしたこと。
私はちょうどその近くにいて見ることができました。
みんなが薪割りでワーワー言っている奥で,チェーンソーの刃の手入れをしていました。
『そうだよなあ。生きている大木を伐る刃物だもの。一度使えば,すぐに鈍らになるだろうなあ。』と思いながら,足立さんの背中を眺めていました。
お遊びなら,この一本だけ伐ればおしまいです。
でも,これをナリワイとする人は一日いっぱいその道具で仕事するのです。
自分の手や腕や足の延長ともなる道具だから,すぐに手入れする。それが仕事人の習い性。プロの立ち居振る舞いをしかと見届けた気がしました。
これから,いろいろな人と一緒に森に入り,歩き,遊んで「森の共通言語」が必然として生まれるのを楽しんでいきたいです。
今日も長い長い長いブログ,読んでくださってありがとうございました。
余力が残っているかたは(笑),過去の「森のはなし」記事もどうぞ↓